政木和三氏からのメッセージ

◆人間の修業とは、他人に喜びを与えることである!◆

政木和三氏
このページは、政木氏が生前、記された真理の法則(気付き)を書き記します。
生前、政木先生には大変ご多忙中の折、突然のお電話(ご相談)にも関わらず快くお受け頂き、多くの皆様に政木先生からのお返事ということで代返させていただきました。それらの質問の数々はすでに政木先生の著書の中に書かれたものばかりでしたが、そのことを予知されて多くの著書に書かれていたのでしょう。あえて、皆様にご紹介させていただきます。
一部は著書からのもの、お電話にてご教授いただいたもの、お手紙の内容などからご紹介させていただきますが、その多くはほぼ同様の内容です。・・・真理は不変なのだと思います。
より詳しい内容をお知りになりたい方は、書店にてお求め下さい。
皆様のご参考になれば幸いです。

●運命も心によって変わる
宿命とか、運命は、自分が生まれたときから決まっていて、その人の生涯は不変のものだと思われている。しかし、私はフーチパターンによって、それが自己の想念によって変化することを、多くの実例によって知ることができた。

工事中!
●精神(心)の作用と反作用
 われわれの周辺のあらゆる現象は、作用あれば必ず反作用があり、作用と反作用は一対となっている。二つの物体が衝突すれば、衝突された物体に作用が起こり、衝突した物体にも反作用が起きる。
 たとえば、大砲を打った瞬間に砲身は後退するが、これも火薬の爆発によって弾丸が飛び出してゆく作用により、それを受けている砲身がその反作用によって後退するものである。これは引力のある地球上にだけでなく宇宙空間においても同じことが起きる。
 この作用と反作用は一般の物体だけでなく、人間の精神面にも同じように起きている。心の中で、Aさんはどうも虫が好かない、しかしお付き合いしてゆかねばならないという自分の不満を押えて、顔にだけ笑みを浮べてお上手を言っても、その心の作用は当然Aさんの胸に伝わってゆく。Aさんも、この人は何か気の合わぬ人だと思いながら、うわべだけでお付き合いすることになる。これが反作用である。
 自分の心の中で、私はさびしい、私ほど不幸なものはないと思い続けていると、その人に近づいて来る人は皆そのような気持ちを持った人ばかりになる。自分ほど不幸なものはないと思い続けている人の側へは、明るくほがらかそうな人は近寄れないものである。日本のことわざにある「類は友をもって集まる」のたとえどおりになる。
 相手の人間性を変えようと思えば、まず自分の性格を変えることが早道である。

 
●発明と奇跡
 発明をする人は数種から数十種もの新製品を作り出すことができるが、発明をしない人は一生かかっても何ひとつできない。現在の大会社の社長、会長は、前世においても城主であり、国王であったように、何回輪廻転生しても一国一城の主となっている。ただ、その前世において、他人に幸福を与えたか否かによって、現世の地位が決まっているようである。いつも管理者として生まれ出る人、また発明者となる人、これらは神の定めた職業かもしれない。
 発明者も超能力者も、その能力は、自分の肉体が持つ教養を基本として展開してゆく。たとえば、一つの教養を持つ超能力者がその百倍の力を出すことができるとすれば、若い頃に多くの修行と研鑚によって百の教養を持つとすれば、その百倍の能力として一万の力を発揮することができることになる。
 自分に不思議な力があると思う人々は、他の一般人よりも、より多くの教養を身につけることによって、社会により大きく貢献することが可能となる。
 生まれつき天才という人は殆どいない。それは人知れずに成した努力の結晶である。昔から、天才の99%は努力の結晶であるといわれている。寝る時間をさいてまでした研究と実験が実ったものである。発明をするには、あらゆる現象に対して疑問を持つことが必要である。身の回りの日常茶飯事を、あたりまえのことだと思っている人に発明はできない。
 1+1はなぜ2になるのかと質問し、先生を困らせたエジソンの話は有名である。科学は、発明発見によってのみ進歩するものである、疑問を持たぬ研究者には進歩はあり得ないであろう。疑問を持つとしても、はるかに偉大なものを求めるのではなく、自分の身近な現象に目を止めればよい。例えば雨の日に、滴が石に当って飛び散る風景を見て、俳人のような気持ちで眺めるのもよいが、科学研究に携わる者は、その雨滴が石に衝突した瞬間を、十万分の一秒ぐらいの高速度カメラで撮影しているような感じで解明したいものである。

 よい発明品の構造は、最もシンプルなものでなくてはならない。例えば、電子計算機では、人間の一年分の計算を数秒間でやってしまうが、コンピューターの中で計算する数字は、0と1しかない。すなわち二進法で全ての計算を行っている。三歳児でも1だったら数えられるだろうし、間違えることもないだろう。コンピューターは、1の数しか計算することができない幼稚な頭を持ちながら、人間の数千人分の計算を瞬時にやってしまうことができる。これは、最も信頼性があって精巧なものほど、その構造はシンプルであることを表している。
 私の現在までの発明品は数百種類以上にもなるが、それらはすべてインスピレーションによって十秒ぐらいで思いついたものである。思いもよらぬ新製品の設計図が、頭の中に忽然と浮かび、それに二次、三次の改良がなされ、十分後にはもう完成品としての設計図が得られ、現物を試作すればそのまま商品として通用するのである。

 生物は自然の環境に順応しながら数億年を生き抜いてきた。発達してから日の浅い現代科学には未完成の部分が多い。新製品を作る時は、自然に存在する物に近似したものを作るべきである。私が神経の研究をしていたとき、神経の中に含まれているコンデンサは電圧と電流の位相差が完全に90度となり、損失が皆無である事実を知ったが、自然の偉大さを身を持って知らされたものである。
 このように、人間は自然に学ぶべきことが無限にある。新製品の開発を志す人々は、人工的なものではなく、自然に近い物を作ることによって、シンプルで最高の製品を得られよう。
 
●無欲の大欲(最短距離で願いを実現する方法)
 「無欲の大欲」とは、欲望を捨てた人はかえって大欲を手にすることができるということわざであるが、そのようなことが実際に存在するのだろうか。そして、欲望を捨てるとはどういうことであろうか。
 某日、ある会社の社長が、「運営も軌道に乗り、私が引退しても経営ができるから、これからは欲望を捨てて社会奉仕をします」と言われた。
 そこで私は、「社会奉仕をしたいというのは最大の欲望ですよ。社会奉仕は、するものではなく、自分の行為が社会のために役立つことです。貴社の製品を社会が求めているものであれば、さらに規模を大きくして、販売量を増加し、もっともっと儲けることですよ。会社が儲かり、社長も収入が多くなり、社員もうるおい、多くのお客様に喜びを与えることになれば、それが社会奉仕です。会社が儲かることは、有益な商品が多く社会に出回り、一般の人々にも恩恵が授ける事になります。引退なんか考えずに、会社の繁栄をはかることが真の社会奉仕ではないでしょうか」と話したが、その社長氏はよく理解ができなかったようである。

 私は「無欲の大欲」の意義をゴルフによって体得した。昭和52年2月、某カントリークラブにおいて実施された関西シニア選手権試合の当日である。第一打を打とうとしたとき、インスピレーションの形で神示が頭にひらめいた。「汝のゴルフ場は足下一平方メートルである」
 今までは真中に飛ばそうとか、グリーンの旗の近くへ寄せようとか思って打っていたために、頭が動いたり、手に力が入ってとんでもない方向に飛んでいったが、この神示のとおり、「汝のゴルフ場は、足下一平方メートル」と考えれば、飛ばそうと思わなくてもよい。方向は最初構えるときに決めるだけでよい。スパットを見つけ、その方向に素振りをする気持ちでクラブを振り、クラブヘッドをボールに当てるだけでよい。ボールに当れば、ボールはその力だけ飛んでゆく、目の前に川があろうと、池があろうと、バンカーがあろうとも、それらはすべて地上にあるものであり、ボールの飛ぶ空中とは何の関係もない。

 ゴルフをはじめた頃は、目の前に大きな池があれば力んでしまったために、池の中に何個もボールを打ち込んだものである。空中を飛ぶボールにとっては無関係な川や池を意識したために力が入り、そのような不首尾な結果を招いたものである。
 自分のゴルフ場は、自分の足下一平方メートルだけであって、広い草原の上はボールの飛ぶ空間であり、飛んでいるボールには地上は無関係である。落下したとき、ボールの近くの数平方メートルだけが必要なゴルフ場となる。
 当日は、第一打の瞬間に頭の中にひらめいた言葉によって、目先の欲望を捨て去ることができて、選手権の二日間は無欲のプレーが続き、そのために情勢が有利に展開し、ついに優勝の栄をになうことになった。
 無欲の大欲。この相反するような言葉は、目前の欲望を捨てて、自分のすべきことを黙々とやっておれば、大きな成果が自分のものとなることを教えている。

 大きな望みを求める時、目前の欲望を捨てることが無欲の大欲であるが、中には「欲をまったく捨ててしまってどうして生活することができるでしょう」と聞く人がある。人間は完全な無欲になりきることはできない。そこで、欲望があっても無欲になる秘訣を述べてみよう。
 人間は肉体と生命体の複合体である以上、肉体で思うこと、生命体で考える事はいつも一致してないと思われる。自分がしようといくら頑張っても、肉体はそのような力は持ち合わせていない。自分の生命体にお願いすることは、自分に自分がお願いすることだから欲望ではない。
 神頼みも同じことで、自分が困ったとき、神様にいくらお願いしても聞き届けてはくれない。これは欲望のためであるが、自分自身の生命体、すなわち自分の体内にいる神様にお願いすればどんなことでも叶えられるはずである。
 
●無欲のとき神は人に力を与える
 科学万能の教育を受けた現代の人々は、科学で説明できない奇跡に対して信じることはできないだろう。私もかつては信ずることができなかったが、自分の目前で起きた奇跡に対し、その現象が事実であるからには否定することもできず、その科学的な究明に乗り出すことになった。
 私は、この不思議な事実を現代の科学で説明づけしようと、種々の測定器を作り電気的または機械的な実験を行っている時、はっきり科学的エネルギー以外のエネルギーの存在を知ったわけである。その科学的エネルギー以外のエネルギーは神とか仏とかの力ではなく、神様がわれわれにその存在を示すためにされた事実であるように思えた。
 この不思議な力を発揮する神のエネルギーにすがりたくなるのが人情の常かもしれない。今まで神の存在を否定してきた人でも、神の偉大なる奇跡を見た瞬間から神に頼りたくなってくる。しかし、神は、奇跡によってその存在を知り信じるだけで、それ以上神について探求したり、依頼心を持ってはいけないと告げる。神に依存心を持つと、何事も失敗の方向に進む。
 その失敗によって、神に頼っては何の助けにもならぬことを神は無言の教えによって導いたものである。それを理解せず、再度神に願うことは具の骨頂であろう。
 神ごとき丸き清き心によってすべて行うこと、すなわち、自分の良心を基調とした行動をすることが、神の存在を知りえた人の人徳というべきであろう。人間は神や仏の存在を知っても、それに頼ってはいけない。自分の力によって、自分の道を切り開いてゆくべきである。

 人間は自分の任務に対して全精力を注入し、99.99%まで完成に近づけると、神は残りの0.01%だけの力を貸してくれるときもある。神は、求め願うものではない。ただ感謝の気持ちをもって奉仕すべきものである。神に願わず、神に頼らず、神に対する奉仕を無償の気持ちで続けておれば、神は願わなくても望みの何倍かのものをわれわれに与えてくださる。求めないときに不思議な力を誇示する神様も、人間が欲望を持って願うときには、何一つ叶えてくれないことを私は事実をもってしらされた。
 よく困ったときの神頼みというが、困ると神社や仏閣へ行き、一生懸命に願っている人がいるが、それまで何が神かと見向きもしなかった人々が、自分の都合だけでお願いして、はたして神は聞き届けてくれるだろうか。いくらお人よしでも、自分勝手なときだけ助けてくれといわれても助ける気は起こさないと同様に、神様だって、ぐうたらな、わがままな生活をしていた人が、困ったから助けてくださいといっても聞いてくれる道理がない。
 神の力も他力を頼る者への働きかけはゼロである。自分の努力によるとき、神の力は願わなくても倍増する。
 
●自分の病気を治すコツ
 病気という文字は気を病んでいると書く。肉体だけが患っているものであれば、漢字を作った人は、病気という言葉は作らなかったかもしれない。大昔の、科学文明の低い時代の判断はすべて精神的なものによってなされたために、漢字の決め方も精神面を重んじたのであろう。今も使われてる漢字の熟語の中には、科学的に考えても真実を示しているものが多い。
 病気になれば、医学的な診断と治療に頼らなければならないことは当然の理であるが、病気の中には、肉体的にはなんら疾患部を認められなくても、本人が病気だと信じ、実際その症状も病気らしいものとなることがある。気の持ち方によって、健康な人も病気かなと思っているうちに本当の病気になってしまう事例が物語っている。これは何を意味するのであろうか。肉体だけではこのようなことは起きないが、肉体を制御している支配者、すなわち第一生命体のためではないだろうか。第一生命体は幽体ともいわれている。病気とは幽体が悪くなった場所の肉体の事を言うのかもしれない。

 ある催眠術の実験によると、催眠術のよくかかった人の手に万年筆を近づけ、「焼け火箸を手に当てます」と言いながら手の甲に当てるとその部分に水泡が発生する。熱くなくても熱いと思うだけで火傷ができるのは、肉体的ではなく、幽体が火傷をしたのではないかと思われる。「病は気から」のことわざは、はるか昔に作られた言葉であるが、その中には真実の意義が含まれている。
 自分の肉体に悪いところがあれば、医師の診断を仰ぐことは当然であるが、決して医師の言葉よりも悪く思うものではない。必要以上に心配すると、それがストレスとなり、体に悪い結果をもたらす。ストレスは本来、生体に外傷、中毒、寒冷、感染といった刺激のストレッサーが加わったとき、体がその刺激に適応しようと努力するためのものであるが、それが適応できない場合、刺激の種類には関係なく、強烈に反応する状態を指している。
 病気を治すコツは、心を平静にすることが病気を治す最高の手段である。患部といえども患者自身の精神力と体力で治すものである。医師は手術や投薬で悪い部分を取り除いたり改善したりしてくれるが、その後を健全な形に復元する力はあくまでも自分自身である。

そこで心の中で、「自分自身の生命体よ、自分の体に悪い部分があれば、光を入れ、調和をとって下さい」と、自分自身にお願いすることである。自分自身に願うことは欲望ではない。欲望のない願いは大きな成果を生むことができる。
 
●商売がうまく行ってない時(商売(事業)が繁盛してない時)
 世の中、経済の波によってうまく事業が進まず苦しいときがあります。そういうときに限って、必ず口に出るのは世の中が不景気だからと言う。苦しいときは、感謝することです。今まで分からなかった苦しみが初めて理解でき、初心に戻ることができます。人の痛みを経験できたことに感謝するんです。感謝の気持ちが無くなったり、傲慢になったり、御礼の心を忘れたり、あたりまえとあぐらをかいた時に必ず訪れます。苦しいときこそ、修業をさせられていると心の底から思って感謝することなんです。
 そして、商品を販売されている方は、こんな良い製品を一日でも早くお客様のお手元に届けることなんです。製品を届けることでお客様から喜ばれる。これが大切なんですよ。真理は簡単なんです。
 商売のやり方が根本的に悪い場合は、頭の固い経営者の考えを押し付けず、周りの意見を必ず聞き入れることです。これでもかこれでもかと、押し進めても何度もダメだったら、人の意見を受け入れなさい。素直になることが大切です。
 


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